宝瓶星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―

リーディング乙巳の変
[古代史解明24]
― 九州倭国王の滅亡 ―

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「日出処の天子」は筑紫嶋から畿内に来た

●第1稿 2026年 3月 3日 アップ。


『日本書紀』の編纂目的は、当時の日本の存続に必要でした。

風雲急を告げ始めた東アジア情勢の中で、日本の独立と安全や維持を図るために、万世一系の「天皇」の正統性を担保しつつ、その下に一致団結した統一独立国家「大和」を築く必要があったからです。

そのバックボーンとなるプロパガンダ(政治宣伝)の書が『日本書紀』です。

宗教を規範とした人類歴史「双魚宮時代」(そうぎょきゅう じだい:紀元前2世紀〜)の第2期の7世紀、当時において“神国日本”の創出が必要でした。

それゆえ『日本書紀』の第一巻と第二巻「神代」(上下巻)に記される「日本神話」が創出されます。

『日本書紀』編纂の意図や大義名分は必要だったので否定できませんが、そこに記される歴史は虚実が入り混じり、にわかに信じられるものではありません。

信用して古代史を論じると、大きな勘違いをおかします。


【注】「双魚宮時代」というのは、春分点歳差に伴なう人類歴史のパラダイム(枠組み)を規定してきた約2,160年(計算値)のスパンで変遷していく時代区分「アストロロジカル・エイジ」の一つです。
古代ギリシャ時代の末期、紀元前2世紀から始まり、当時すでに今日の「宝瓶宮時代」(ほうへいきゅう じだい)の到来も予見されていました。



《 創作された「乙巳の変」 》

『日本書紀』は古代の歴史を創作したプロパガンダの書です。

そのため随所に矛盾が見られます。

その代表が7世紀の畿内「大倭」(おおやまと)で起きた「乙巳の変」(いっしのへん:645年)です。

史実は、『日本書紀』に記された内容とは大きく異なります。

実際は6世紀末〜7世紀初頭に『日本書紀』でいう“推古女帝”(すいこ:554-628年)を2世紀の倭国大乱を終息せしめた“卑弥呼の共立”に準じて和のシンボルとして立てています。

その推古を傀儡に7世紀の畿内「大倭」(後の大和)を治めていたのが、九州倭国王「蘇我馬子」(そがの うまこ:551-626年)です。

しかし、二代目蝦夷(えみし)に続く三代目入鹿(いるか)の代に、ウソかマコトか中大兄(なかのおおえ:後の天智大王)によって滅ぼされた歴史的クーデターが「乙巳の変」でした。

蘇我馬子は支那(China)の冊封下から離れ、日本を独立に導いた偉大な政治家ですが、「売り家と唐様で書く三代目」と言われるように、三代目の入鹿の代になると権力に奢り周囲の反感をかっています。

「乙巳の変」の当日、645年7月10日の「ホラリー・ホロスコープ」には“偉大な権力の滅亡”と、『日本書紀』には記されませんが“女性の解放”ともいえる“国家の理想像”が示されています。


●蘇我馬子の墓とされる「石舞台古墳」。巨石の下に遺体を置いたと思われる空間があるが今は何もない。

One-Point ◆ ホロスコープのみで史実を解明するのは無理があります。『日本書紀』の矛盾と支那(China)の史書『隋書』『旧唐書』などの整合性を図りつつ、事実を見抜いて、最後にホラリー・ホロスコープによって裏付けることで隠された史実が見えてきます。

※ご参考に「乙巳の変」のホラリー・ホロスコープを最後に掲載しておきました。



《 天武の皇子「舎人親王」 》

『日本書紀』編纂チームの総裁は「天武天皇」(てんむ:生年不肖-686年)の第六皇子「舎人親王」(とねり しんのう:676-735年)です。

皇親政治を行なった天武の皇子が皇族や貴族に仕える下級官人や従者などの雑用係を意味する「舎人」(とねり)と呼ばれるのはヘンです。

理由は、天武の后:持統天皇(じとう:645-703年)の最側近でブレーンだった天才:藤原不比等(ふじわらの ふひと:659-720年)が、事実上『日本書紀』のシナリオを描き、その“舎人”同然だったからです。

舎人親王は、天武の皇子とはいえ持統の実子ではなく、妹の新田部皇女の子です。

持統は、実子の草壁皇子(くさかべのみこ:662-689年)の早世によって、孫の珂瑠皇子(かるのみこ/後の文武天皇:683-707年)に皇位を継承させ、天武の遺志「万世一系」を何が何でも定着させる強い決意を持っていました。

舎人親王はむしろそのライバルだったのです。

【ご参考】 天武の第一皇子で、持統の下で太政大臣を務めた高市皇子(たけちのみこ:654-696年)も実子ではなかったからか、持統10年に薨御しています。

One-Point ◆ “二度と皇位争いを起こさない”とする天武の「吉野の盟約」すなわち「万世一系」を実現したい持統の想いは、「春過ぎて夏来にけらし白たえの衣ほすてふ天の香具山」の御製に秘められています。持統の意を受けて、不比等は『日本書紀』に「天孫降臨」を記させ、持統から孫の文武への譲位による事実上の「万世一系」の正当化を見事に定着させます。



《 九州倭国王:蘇我大王家 》

「乙巳の変」にはおかしなことが書かれています。

●『日本書紀』「皇極天皇紀」より抜粋
「蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。」

「天皇記」や「国記」がなぜ甘樫丘の蘇我蝦夷のもとにあったのか。

また、なぜ蝦夷自身が焼却処分をする必要があったか。

さらには、なぜ炎の中から「天皇記」と「国記」を選別して都合よく拾い上げられたのか。

ここでいう「天皇紀」(「帝紀」)や「国記」というのは、実は九州倭国の大王の系譜(帝紀)と九州倭国の歴史(国記)です。

九州倭国王蘇我氏が所蔵し甘樫丘の邸宅にあっても不思議はありません。

問題は焼かれたとする理由と「天皇紀」と「国記」のみが残されたとする理由です。

戦って生き延びれば蘇我大王家に必要な記録なので、蝦夷が自ら焼却する必要はなく、持ち去る間もなく奇襲されたとすれば、火をかける暇などありません。

結局、九州倭国や蘇我大王家の実在を示すものは、当初からの統一独立国家「大和」だったとする『日本書紀』に不都合だからです。

One-Point ◆ 九州倭国の実在が抹殺されているのは、それだけではありません。卑弥呼や邪馬台国の記録も消されていますし、「日向」の地名は南部九州に移し変えられ、祖にまつわる「日子山」の名称も勅命により彦山(現在は英彦山)に改称されています。念押しに、日本人は古来、文字を持たなかったことにされています。




《 阿毎多利思比孤は蘇我大王家 》

蘇我入鹿(そがのいるか:生年不肖-645年)は、皇極天皇(こうぎょく:594-661年)の御前“大極殿”で首を刎ねられたと『日本書紀』には記されています。

ですが、皇極の時代に天皇の国事を行なう「大極殿」はまだありません。

初めて天皇号を用いた天武の御世にはじまった名称です。

また、皇極の飛鳥板葺宮(あすか いたぶきの みや)から500メートルほど離れた飛鳥寺の前に、なぜ蘇我入鹿の首塚が建っているのでしょうか?

甘樫丘とは方向が違いますので、奈辺で入鹿大王を闇討ちし、そのまま蝦夷のいる甘樫丘まで一気に攻めのぼって滅ぼしたということでしょうか?

いずれにしても、国家の安全保障を考えれば、大陸に近い九州倭国の首都移転は急務で、隋の冊封下から離れるため“国ゆずり”(政権移譲)の名目で畿内国(ヤマト)を“吸収合併”して「大倭」としたものです。

「乙巳の変」ののち、「白村江の戦い」や「壬申の乱」など紆余曲折があって、結局、持統の譲位によって文武天皇18歳の701年に、「大宝律令」によって統一大和「日本」の国号が定められます。

ゆえに、24歳で崩御された文武の諡号(しごう)は、「倭根子豊祖父天皇」(やまとねことよおほぢのすめらみこと)と申し上げ、“祖父”と奉られています。

今日に続く日本(号)初の天皇です。

One-Point ◆ 『日本書紀』には第二次遣隋使(607年:2代目煬帝[ようだい]のとき)のみ記されています。第一次遣隋使(600年:高祖文帝のとき)は、九州倭国から派遣されているからです。小野妹子が煬帝からの国書を紛失したにもかかわらず、罪に問われていないのは「九州倭国」の記録を残さないために“紛失”したことにしたものです。



《 筑紫嶋からきた“支配者”「大臣」 》

極めつけは次の一文です。

『日本書紀』「推古天皇紀」より抜粋
「庭の中に小さな池を掘り、池の中に小さな嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣(しまの おおおみ)と言った」

馬子が「嶋大臣」と呼ばれた由来の記述です。

当時の大臣は今日の総理大臣(首相:トップ)に当たります。

「嶋大臣」と呼ばれたのは事実でしょうが、その理由は「池の中の小さな嶋…」などではなく、筑紫嶋(ちくしの しま:九州)から来たからです。

『隋書』には、「姓は阿毎(あめ)、名は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩ケ弥(大王)と称す」と記されています。

畿内ヤマトと合併前の九州倭国王の名前です。

当時は“摂政”なる役職はありませんので、作られた“摂政”聖徳太子などではなく、蘇我氏の偉大な業績を太子に移し替え糊塗するためで、阿毎多利思比孤は「蘇我馬子」もしくは父「蘇我稲目」(そがの いなめ)にあたります。

One-Point ◆ 九州倭国の記録は、天皇を凌ぐ藤原摂関家時代に完璧に消されています。証拠は残されていません。ですが『日本書紀』編纂チームが賢かったのは、不比等の命令には逆らえませんが、あえてウソと分かるウソを『日本書紀』に記すことで、真実を推察できるように図った良識的な面々だったことです。



【ご参考:ホラリー・ホロスコープ】

●“最高権力の変化”、“トップへの武力対立”、“国家理想や女性の自由”などが象わされています。

当日のホラリー・ホロスコープを見れば事実が示唆されています。

実際に「乙巳の変」は起きており、日付けも正しいものです。

主観解釈の“ホロスコープ占い”ではなく、宇宙の根幹法則「基本三数」によってホラリー・ホロスコープを実学解釈すれば、運命的に否応なく起きた“最高権力へのクーデター”であることが分かります。

それだけでなく、“女性の解放や国家の理想像”への志向が示されています。

詳細は留保せざるをえませんが、蘇我大王家の支配からの脱却であり、自由への解放と国家ヴィジョンを目指して弑逆(しいぎゃく)せざるをえかった出来事です。






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