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陳寿が著したウソとマコト
[古代史解明22]
― 魏略は「馬臺」と「早弥娥」 ―

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邪馬台国も邪馬壱国もなく「馬臺」があった

●第1稿 2025年 4月27日 アップ。


「魏志倭人伝」だけを目を皿のようにして読んでも、通称“邪馬台国”の場所が 見えてくることはありません。

「陳寿」(233-297)という文字を目にして「魏志倭人伝」を著わした著作郎だと分かる方は“邪馬台国”や“卑弥呼”に相応に詳しいと存じます。

ですが陳寿は、軍事記録として欠かせない「距離」や「方角」はともかく、「国名」や「人名」に対しては、かなりぞんざいに記しています。

たとえば、「邪馬壹国」(やまいちこく)や「卑弥呼」(ひみこ)また「壹與」(いよ)などは、虚偽の記述です。

なのに“勘違い”をされたまま、“邪馬台国”は“やまと”だと考えて、“邪馬台国東遷説”を推論しても事実とは異なるものになります。



《 テキトーにまとめられた「魏志倭人伝」 》

「魏志倭人伝」を著したのは、著作郎の陳寿ですが、彼は倭に来たのでしょうか?

来ていません。

膨大な『三国志』を著わすのに、そんな時間はとれませんし、ではどうやって「魏志倭人伝」を著わしたのかということです。

1世紀〜3世紀の“倭”に関する複数の記録を、“テキトー”にまとめたのが「魏志倭人伝」です。

ただし、軍事に関係する距離や方角また矢の材料などは(ほぼ)正確です。

テキトーに記したのは、国名や人名などで、中華思想の彼にとって、どうでもいい部分だからです。


●福岡県太宰府市の「大宰府政庁跡」。元は倭国の首都だった場所。のちの大和朝廷の西の都となる。

One-Point ◆ 倭に来たのは「敵か味方か」「どれくらいの軍事力か」国情偵察です。東夷すなわち“東の蛮族”と蔑む辺境の“倭”など、軍事関連の関心以外はなく、テキトーに記したのが陳寿です。



《 陳寿は「魏略」をタネ本にした 》

時代はさかのぼります。

“邪馬台国”以前、1世紀の北部九州にあった「奴国」(なこく:倭の前身)を著した『後漢書』(ごかんじょ)があります。

『後漢書』が記されたのは「魏志倭人伝」以後で、いずれも当時残っていた「魏略」を参考にしています。

ただし、今はもうありません。

大陸のほかの古代文物や文化遺産の多くがそうですが、中国共産党が「文化大革命」という美名のもと、ことごとく焚書にし、自国の文化を破壊したためです。

現代中国人が日本に来て、失われた自国の文物があることに驚き羨望することさえあるのはそのためです。

One-Point ◆ 陳寿が「魏志倭人伝」を著わすさいに参考にした「魏略」の逸文が、唯一日本に残っています。太宰府天満宮が所有する国宝『翰苑』(かんえん)がそれです。叙文と第30巻のみです。



《 太宰府に『翰苑』が残る理由 》

当初、「へぇ〜」と軽く考えていました。

ですが“邪馬台国”の比定にかかわる重要な“証拠”かもしれないとあとから気づきました。

逸文というのは、“ほかの書物に引用されて断片的に伝わる文章”などのことで、陳寿が参考にした「魏略」の一部が『翰苑』の叙文や第30巻に記されているということです。

なぜ、太宰府天満宮に『翰苑』の叙文と第30巻のみが残されているのでしょうか。

“倭=大和”だったと『日本書紀』の作為された記録を信じて、7世紀以前のヤマトも万世一系の“天皇”(大王:おおきみ)だったと考えていたら、ピンとこず「ふ〜ン、そんなこともあるのね」となります。

とんでもありませんでした。

かつて太宰府天満宮の奈辺にあった、自分たちの古代国のことが記されているため、当時も大事にされ、今も残されているのです。

One-Point ◆ 太宰府天満宮のすぐ近くに「大宰府政庁跡」があります。大和朝廷の西の都となった場所です。それ以前は「九州倭国」の首都で、近隣には古の都“邪馬台国”があったため、自分たちの古代の記録が残された『翰苑』を太宰府天満宮に寄贈したのか、大事に残されています。



『翰苑』に残る「魏略」の逸文

●「馬臺」→“邪馬台国”
憑山負海 鎮馬臺 以建都

読み下し:山につき、海をおい、馬臺(またい)を鎮め、もって都を建てる。

●「邦臺」→“邪馬台国”
其大倭王治邦臺

読み下し:その大倭王は邦(倭)の臺(台)に治める。

●「早弥娥」→“卑弥呼”
早弥娥惑翻叶群情(下記に続く)

読み下し:早弥娥は惑わし翻弄し大衆の気持ちにかない、

●「臺與」→“台与”
臺與幼歯方諧衆望

読み下し:台与は幼なく衆望にかなう。

これらを陳寿は「魏志倭人伝」を著わすさいに「臺」(台)を「壹」(壱)に変え、「邪馬壹国」(邪馬壱国)やまた「壹與」(壱与)と記しています。


《 正しくは「馬台国」と「早弥娥」 》

『翰苑』を読むと、“邪馬台国”という国はなく、“卑弥呼”(ひみこ)という「巫女」などもいなかったことが分かります。

あったのは、左欄の原文からも分かるように「馬臺」、すなわち馬台(またい)でした。

いたのは“卑弥呼”ではなく「早弥娥」(?みか)だったことが分かります。

陳寿は通称“卑弥呼”が鬼道(死者の口寄せ:託宣)を行ない、大衆に支持されていたことを“衆を惑わす”と悪しざまに記し、「邪」を付けて“邪「馬台」国”と著わしました。

また、“美しい”といった意味を持つ「娥」を倭の女王に付けることを嫌い、娥を「呼」に変え、さらに蔑んで早を「卑」に変えて“卑弥呼”としたのです。

そういったことを正史で尊大に行なったのが陳寿です。

ただし、軍事に関する“邪馬台国”までの距離や方角を偽れば、クビが飛びかねないために、変えることなく記録のままに記しています。

記述と解釈ミスがありますので、詳細は「邪馬台国への行程ミス」をご参照ください。

One-Point ◆ ちなみに、「壹與」(いよ)という2代目女王もいません。「魏略」の逸文が残る『翰苑』には、「臺與」(台与:とよ)とちゃんと記されています。「馬臺」(馬台:またい)と同じ「臺」(台)の文字です。



《 統一独立国家「大和」の原点 》

以前に掲載した内容ですが、欄外に「原文」の一部を再掲しておきました。

ネット上にも掲載されていますので、ご参照ください。

日本の前身となった7世紀以降の統一独立国家「大和」の原点にもかかわる記録だといえます。

その原点とは、2世紀に起き、長く続き「倭国大乱」と呼ばれるようになった北部九州の戦乱を、一人の女王を共立することによって収めた、日本の“和”の原点となった倭人の国、のちの「倭国」です。

倭の女王“卑弥呼”(早弥娥:?みか)、倭の五王(讃、珍、済、興、武)、7世紀初頭の独立統一国家「大倭」(おおやまと)の立役者/阿毎足利思比孤(あめの たりしひこ)大王の九州倭国です。

One-Point ◆ 九州倭国は、大和によって歴史から抹殺された“九州王朝”にあたります。一方、日本書紀史観によって、古来から統一大和だったと誤って考えると、「魏志倭人伝」の記述と距離や方角が合わない“邪馬台国阿波説”の妄想に陥りかねません。






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